斑唐津について
そんな中、足を運んだ骨董屋さんで一頻り”斑談義”で盛り上がる。で、「どうして伝世品がほんの少ししかないのか?」というトピックでヒート・アップ!
確かに斑の伝世は無地や絵唐津とは比較にならないぐらい少ない。今に伝えられているものはほとんどが明治以降、いや昭和初期以降の発掘の手、だ。
「製陶された量が少ないから」、というのがとりあえずの着地点。
帆柱、皿屋をその代表に道納屋、平松、山瀬、櫨の谷、大川原、藤ノ川内、阿房谷、金石原、岳野、中野原、椎の峰、宇土の谷、長葉山の諸古窯で斑釉を使用した陶器が焼かれた<昔の資料を調べるともう少し多くの窯で焼かれていたようだが、現地で私自身が陶片を確認したものを列記~消滅した岸岳系大谷古窯は省く>。が、200近くあった、といわれる唐津系陶器を製造した窯と比較すると確かに窯自体が少なく、したがって製造量も少ないわけ。
なんとなく、気持ちは収まったものの気にかかり各方面にリサーチ。
その中で「斑は当時は下手な焼き物だったから」と、いわれた蒐集家がいた。「茶人達が斑の”派手さ”を嫌い、それと逆に朝鮮陶直球の空気感を持つ無地や、その無地に若干のアクセントを加えた絵唐津をピックアップしたから」、と氏は続ける。確かに!
「備前の徳利に唐津のぐいのみ」。
これでいう唐津は斑を意味するみたい。このお決まりのフレーズは大正末期から昭和初期にかけての財閥系茶人に流行った茶陶に端を発しているらしい。それは発掘ものの斑盃だったのだろうが、当時はまだまだ程度のよい発掘物も多かっただろう。当然彼らが付ける値は庶民のそれと桁は違っていただろう。その気分がなんとなく現代の数奇者達に伝わり、供給がなくなった今、高値に結びついている、と私は思う。ってか高すぎ!
でも欲しいんだよなぁ・・・。
写真は岸岳諸窯の斑唐津陶片。どれがどこの窯か、特定できますか?