古唐津 岸岳庵

24時間古唐津数奇 feat. 初期伊万里・李朝・木地盆

久しぶりのブログ・アップ~窯跡巡りアーカイヴ改訂版

地震から10日が過ぎた。被災地の惨状、そして福島原発の諸々、と日々色々と考えさせられ、行動している。いずれにせよ、在東京であっても余震は続くし、浴室やら洗面所やらで下を向くといまだに目眩に襲われる。「今までの日常」を取り戻すにはまだまだ時間がかかりそうだ。出来る事を粛々と、そして凛とこなし、前進するしかない。

そう、前向きに!
で、久しぶりにブログをアップする気持ちになった。

このブログを開設する前にmixiで同名のコミュニティを運営していた<更新はないが、今もそのまま残っている>。と、いってもこのブログ同様に相当深くやっていたので書き込みはなく、トピックスは私があげまくる、ほぼブログの状態だった。そんなコミュを久しぶりに覗いてみて今更ながら「よくやっていたなぁ」と思った。

特に窯跡巡りに関してはなかなか面白かった。
で、当時の事を思い出しながら想い出深い窯跡の事を綴ってみることに。

最初の窯跡巡りは、数々の名品を生んだ、松浦系道園古窯だった。
~2004年3月の、とある週末。福岡での仕事を終え、一路唐津市佐里の梶原靖元氏の営む大谷工房飯洞甕窯へ。氏に窯跡への連れて行ってもらう約束を取り付けていたのだ。窯跡の希望はしていなかったのだが、「まずはここでしょ!」とお連れいただいたのが道園、だった。当時は地主さん方も敏感でなく、普通に窯跡散策をする事が出来たのだ。今となっては夢のようだが…。

佐里から約15分程で現地に。
猪小屋のある道路脇に車をとめ、徒歩で小川沿いの農道を丘陵地に向かい、これまた5分ほど歩いた。

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農道から右に更に分け入る。
相当なブッシュの中を数十メートル。視界が開けたところ、そこが窯跡だった。そこは南西にひらけ、登り窯焼成時に風がうまく吹き抜けるのに最適な舌状丘陵の先端。勾配は相当なものだった。





丘陵の裾両側には川が流れていて、窯を築く全ての条件が揃っている<当時はもっと水流があったはず。今は窯跡に向かって右側は池になっている>。

で、窯跡に立つなり、「こりゃ酷いな」と呟く氏…。

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ついさっき盗掘が行われたようにそこかしこに穴が掘られ凄まじい量の陶片や陶枕が散らばっていた。右側が物原だったようで、その辺りの盗掘痕が酷い事になっている。





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目が慣れてくるとその陶片にも様々な種類がある事に気づいた。無地唐津<緑色、黄色、グレイ、枇杷、黒>、そして絵唐津<皮鯨、有名な、ぐりぐり文他様々な絵文様~左の写真には写っていない>…。胎土目で積まれた小皿類、陶枕にくっついたお茶碗等々焼成時の状態も伺い知れた。





朝鮮半島から来た人々の手による古唐津の陶片、しかも彼らが営んだ窯跡でそれを目の当たりにした感動、衝撃は今をもって筆舌に尽くす事が出来ない。自分が立つこの場所で、これらのものが創られていたんだ、と感じ入って以来、私は窯跡、古陶数寄から言わせると”現場”に足を踏み入れる事によって骨董屋巡りでは到底得難い何か、があることを知った。

それ以来窯跡巡りに魅せられ、機会ある毎に彼の地に足をのばすように。
5、6回を越えるぐらいから先輩方が言われる、”窯毎の特性”がある事に気づき、単に古の営みを想起する感動ばかりでない面白みに嵌って行った。物の本で知るより、現場で全身で感じる。得られるものはでかかった。今もそれは変わらない~この道園が最初だったのだが、土味は際立って細かく、白い事が解った。高台の削りも細く、シャープなものが多かった。他と比較して解った事、です。

道園にはそれ以降何度か。
けれどここ数年は盗掘者と間違えられる危険性が高まり近寄れない。残念な時勢になってしまったもんだ。あれ以来学んだ経験を踏まえじっくり彼の地を散策したい、などと思っている次第。

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以前、とある骨董屋さんに見せていただいた
道園、と思われる発掘伝世のお茶碗<飯茶碗>
~この文様や土味でいうと狼ヶ鞍あたりかも。